おととい(2017年6月24日)、立川シネマシティで『映画「聲の形」 inner silence 極音上映』を鑑賞した。本記事はその感想である。
「シネマシティ恒例の極音上映か〜」と思いそうなタイトルだが、今回は内容が特殊だ。
- 音声トラックはパイロット音源に差し替え
- セリフなし
- 効果音なし
ここでのパイロット音源が「innner silence」というタイトルである。制作初期にコンセプト的に制作された音源を再構成し、Blu-ray版ディスクに新たに収録したものだそうだ。 私は限定版Blu-rayを予約して買ったのだがinner silenceは未視聴で、立川で上映されると聞いてからあえてそのまま視聴せずに当日を迎えた。
挨拶〜上映開始
15時30分開始。壇上に牛尾憲輔氏とポニーキャニオンの担当の方(お名前を失念してしまいました、すみません)が登壇。 曰く「そもそも人が来るのか心配だった」そうだが、会場は満員御礼とのことで嬉しそう。
牛尾氏「途中でつらくなってきたら、作画に集中してみるといいと思います。京アニの神作画は本当に素晴らしいので!たとえば植野の会話してる途中のだるそうな顔かわいいなーとか。笑」
牛尾氏は植野推しなのだろうか。聞いてみたかったのだが、上映後のトークショーではぎりぎり手を挙げるタイミングが遅れ、聞くことは叶わなかった。
冒頭
心臓の拍動を思わせるドックン、ドックン、という音から音声はスタートする。 そこに弱いホワイトノイズ、Drone musicを形成する長いトーンと、散りばめられたInventionの旋律が加わる。
通常の本編であればThe Who - My Generationがかかるシーンまで差し掛かったところで、この映像と音声をどう鑑賞すればよいのか色々考えていた。
この音声は誰の主観なのか(硝子?将也?視聴者自身?)、長いトーンの音階にはどういう意図があるのか?ひたすら流れているInventionは何を意味するのか? ていうかinner silenceってそもそも何なのか?
映像に関して気づいたことといえば、将也の母が営む理髪店に硝子が姿を見せたシーンで彼女の髪に葉っぱがついていた事だ。原作では、硝子の髪を短く切って男の子に近づけようと、理髪店に西宮親子でやってくるシーンがあったのですぐ対応がついた。
硝子が転入〜小学生時代の回想終わり
硝子が教室に現れるシーンでは元々「inv(I.i)」がBGMとして流れるので、inner silenceのトーンに少し不穏さを感じつつも概ね自然に入ってくる。最初はなんとなく硝子とコミュニケーションを取るクラスメイトだが、植野と将也を中心にだんだんと不穏になっていく。
視聴者である我々は本編を視聴したことがあるから、誰が何を言っているのかわかる。だが今は人の声ひとつない。わかっていそうで理解していなかった硝子の視点を体感して、思わずため息が出る。 健常者とは筆談で会話するしかないからどうしてもワンテンポ遅れるし、何を話しているのか教えてもらう必要がある。そこに扱いにくさを感じ、不満を持ち、クラスメイトたちは離れていく。想像しただけでも辛い。どうすることもできない硝子は、結局その場を取り繕うために笑顔を作るしかない。彼女にはそれが精一杯の対応だっただろうことは想像がつく。
そうこうしているうち、硝子が将也に「とも・だち」と言うあのシーンがやってくる。ここにおいても、セリフも効果音もなくただただinner silenceのトラックが流れるばかりだ。 硝子が手話で「友達」と言ったのに対して、非情にも将也が砂を投げつけてくる。硝子の不憫さを考えていると涙が出てきた。
今まで本編を視聴した中で、涙が出たのはいつもラストシーンだけだったから、今になって硝子の視点を少しでも理解できた気がして「あぁ立川に来てよかった…」と感動した。
この他にも、映像を見ているとクラスメイトたちの一挙手一投足がよく見えた。通常の本編であれば声を出している人物に集中しがちだが、今は声がないので動きがよく感じ取れる。例えば、硝子の補聴器がたびたび紛失している件について校長が話している際の植野。担任が「植野ォー、」と言った時の焦る表情と、将也の悪行を述べた後、あさっての方向を見ている所に後ろめたさが読み取れる。その後も、クラスメイトの蔑むような目など、重苦しい空気感が隅々まで表現されていた。
高校時代へ戻る〜夏休み
硝子に謝るため足を運んだ手話教室で、将也は結絃に道を塞がれる。今回気付いたことだが、このときの結絃の表情が1度目の訪問と2度目の訪問で違っていた。1度目は無表情そのままという感じだったが、2度目は眉をつり上げて「なんだお前」と言わんばかりの表情をしていた。かわいい。
硝子が将也に伝わらない告白をした翌日、川井が髪型を変えた際に顔のバツマークが取れるのだが、なぜここで取れるのだろうか。川井が将也に対して普通に接しているところが、将也に少しでも心を開かせたのだろうか。はたまた単にかわいいからなのだろうか。川井が八方美人なのは将也が一番知っていると思うのだが…
結絃が家出して将也の家にかくまわれた際、回想シーンで硝子が結絃に対して放った手話が、思ったより詳細に描画されているのに気付いた。この時「硝子に『お前なんかいらない』って言われた」とつぶやくが、この手話がどういう意味で、どれくらい激しいものなのか実際に検証したいものである。(日本語→手話はかんたんだが、逆はどうやって調べればいいんだろう)
inner silenceの考察
誰が何を喋ってるかはだいたい覚えているので、inner silenceについて考える余裕ができた。 考えた内容の答え合わせは後で大体できたのだが、ここでは当時考えた内容をそのまま書く。
inner silenceは、花火大会で転機が訪れるまで文字通りずっと、ずぅーーーっと一本調子のDroneである。いや、一本調子と書くと失礼だろうが、とにかく同じコンセプトの旋律を保って進行しているのは確かだ。
- inner silenceとは何なのか
聴覚を完全に失わない限り、生きている上で完全な静寂を体験することはない。まわりが静かになっても、自分の体からくる音は消えない。衣擦れや、呼吸、心拍といった音だ。でもそういう音は聞き慣れているから、わざわざ「服が擦れる音が聞こえる」などと思ったりはしない。静寂とは作り出された感覚を指しているのだ。
だから、この「inner silence」ということばには興味をそそられる。自分が音と認識していないもの(静寂)を音として表現したからこのような名前になったのだろうか。 そうするといろいろなことに納得できる。感情は音ではないが内面の状態を大いに表現している。そこを長いトーンに落とし込む。生きている体から来る音を、ピアノの機構が生み出す音になぞらえてInventionに落とし込む。なるほど…わかってきたかもしれない。
- ひたすら流れているInventionは何を意味するのか
Johann Sebastian Bach が作曲した Invention は有名なピアノ練習曲である。本編の作曲を担当した牛尾憲輔氏は、以前のインタビューにおいて「これは将也が生きる練習をする映画だから、ピアノでいう練習曲となるInventionを取り入れた」という旨のコメントをしている。だから、非常に低速で流れているInventionは、将也が今まさに生きる練習をしているという証左となっている。
- この音声は誰の主観なのか
ホワイトノイズといえば、昏睡している将也を硝子が夢に見た際に鳴ったはずだ。急激に立ち上がってくるノイズと直後の硝子の焦りに身構えた記憶がある。ということはinner silenceは硝子の視点なのだろうか?
しかし、この映画は基本的に将也の動きを追っている映画だ。鳴っている長いトーンはおおむね将也の感情を反映しているようにも感じられる。それに硝子も高度の難聴とはいえ何も聞こえないわけではないから、キャラクターの声が全くないことが、硝子の視点であると証明する要素にはなりえない。
加えて上にも書いたように、Inventionが流れていることが大きな手がかりとなる。現時点では将也の視点である確率のほうが高そうだ。
- 長いトーンの音階にはどういう意図があるのか
長いトーンはそのシーンでの空気を反映しているようにも感じられる。だが決して全部そうというわけではなさそうで、長調的な変化と単調的変化がないまぜになっている。1音1音が長くよくわからないが、ひょっとするとこれもInventionをベースにしているのかもしれない。調の概念は置いておいて。
問題は、このInventionがどこまで流れるかだ。とてもラストシーンまでこの一本調子で行くとは思えないし、どうなるか楽しみだ。
花火大会
花火大会でついに大きな転機が訪れる。自殺を図った硝子を助けた将也がマンションから転落してしまったときだ。
着水の瞬間、ゴゴゴゴという大きな重低音が旋律をかき消した。通常の本編で鳴っていた低音よりもずっと強いものである。
実際にはそれまでの音は転落してからも鳴っているのだが、あまりにも重低音が強くて端々しか聞き取れない。 将也がその後意識を失っていく間、Inventionの旋律が千切れ、フェードアウトしていく。走馬灯と薄れる意識とが見事に表現されている。
病院のシーンになると今までと同じDroneなトラックが復活する。そして、植野が硝子に手を上げるシーンを経て、覚醒へと向かう。
inner silenceは将也の主観だった
中盤まで、inner silenceのトラックが誰の主観なのか判定できずにいたが、ここで将也の視点であることがはっきりした。 ではこれからラストにかけてはどうなるのだろうか。本編においても劇的な描写がなされるラストシーンならきっと何かあるはずだ。
花火大会〜覚醒
原作を読んだ方であればご存知と思うが、将也が昏睡している間は硝子視点の音声世界となる。
例えば「佐原さん」は「しゃはらああん」と不明瞭な発音で記され、高校生になってからは右耳の聴覚を失った影響か、さらに文字が欠けて判読も難しい状態となる。硝子の聴き取れる音声が非常に不明瞭であることがよくわかる表現だ。
しかしながら、映画の本編においてはそういった音声の変化はない。今回のinner silenceにおいても、それまでのDroneなトラックに変化はない。このあたりは、将也の視点たるinner silenceというコンセプトを貫いているなと感じた。
そして将也が目を覚ます夜、硝子は彼が死を覚悟し別れを告げるビジョンを見る。 音声からホワイトノイズが消え、将也の気持ちが静かな文字となって硝子に流れ込んでくる情景は、本編で唯一彼女の主観で綴られたシーンであることを示しているものと思われる。
覚醒〜文化祭〜ラスト
無事目を覚ました将也は、硝子と共に高校の文化祭へ足を運ぶ。と、ここで音声トラックに変化が訪れる。 校門をくぐる瞬間、Cコードの和音とともにInventionが締めくくられ、調をもった全く違う音楽が始まったのだ。 聞いた限りではCの和音と判別がついたので家に帰り調べてみると、Invention 772もCの和音(正確にはCの転回型)で締めくくられていた。これがわかった瞬間、もう鳥肌である。
文化祭をもって、将也の「生きる練習」は終わったのである。
かすかに聞こえる鮮やかな音色の中、校内で将也は同級生たちと再開する。そして外をみんなで歩きながら、将也は塞いでいた心の耳を開けるのだが、これと同時に飛び込んでくる音の分厚さといったら!世界はこれほど鮮やかだったといわんばかりに、頭の近くや遠くでいろんな音が鳴り響く。あらゆるものから解き放たれた将也はぼたぼたと涙を流し、本編は終わった。
答え合わせのトークショー
さて、上映後には牛尾氏を交えたトークショーがあった。内容は主に山田監督とのエピソードだったが、この中で今までの鑑賞の答え合わせとなる発言もあったため抜粋しておく。(もちろん録音したわけでもなく、うろおぼえ程度である点に注意されたい)
牛尾氏「山田監督とメタな視点でコンセプトを共有していく中で、聲の形は将也の人生譚であり、生きていく練習をしていく物語だという点で一致しました。だから、映画の全体に渡ってピアノの練習曲であるInventionを採用しました。」
「静かな場所にいても、自分の体から出る音は常に聞こえています。聞きたくなくても、聞こえてしまう音というか。今回の音楽制作にはピアノと徹底的に対峙するというテーマもあったので、それをピアノのトーンアームとか、演奏者の動く音になぞらえて収録しました。ピアノの中や前後にマイクを配置して、その音を劇場の周囲から鳴らすことでピアノの中にいるような感覚が生まれます。」
「このinner silenceは、製作初期のまだ未完成のプロットに合わせたコンセプト的音源として制作したものです。生きる練習→Inventionという発想が生まれたときは興奮しました。…これを山田監督に見せたところ反応が良くて。鶴岡さん(音響監督)のようなビッグネームの方に聞いてもらうと、ひょっとすると怒られるんじゃないかみたいな心配がありましたが、むしろ一番ノリノリだったのが鶴岡さんで…」
筆者の感想
「Drone」というからには、いかにも実験的な音源になることは当初から予想していた。正直なところ途中で飽きてしまうのではないかという心配もあったが、これは全くの杞憂だった。むしろ、1分たりとも集中は途切れることなく、音の展開を追ったり考察したり描写をつぶさに観察したり(みんな表情が少しづつ変わっててすごいなとか結絃やっぱりかわいいとかD3300使ってるっぽいとか植野ってすごい表情豊かだなとか植野に初めて補聴器を取られる直前に硝子が見せた表情が半端なく可愛い死ぬとか)など濃密な視聴体験であった。
牛尾氏曰く、「art」という単語はもともとギリシャ語の「τεχνη」(テクネー)をラテン語に訳したもので、このテクネーは今日の「technology」の語源となっているそうだ。氏と山田監督の視点が高度に共有され、音楽と映像が高いレベルで融合した映画「聲の形」は、まさに美術と技術の結晶であろう。